実は浅見光彦倶楽部発足したてに会員になっています(・_・;
そんなご縁で作家内田康夫先生とは度々お会いしておりますが、
未だ霧島市になる前の姶良郡隼人町時代の京セラホテルでもお会い
したことを思い出して不思議な感じがします。
(20年前ですので二人とも若いですねー)
その内田康夫先生が10年前に出版された小説「棄霊島」。
ここには軍艦島の影の部分にも光を当てた記述があります。
学会で長崎滞在中のホテルで軍艦島へ渡れるというパンフを見つけた際
10年前に読んだ「棄霊島」が私の心に指紋を押していたようで疼き出し
大会が始まる前の隙間の時間を見つけて長崎港へ向かいました。
何とかチケット一人分を手に入れ乗船です。
初めて見る海上からの長崎。
岩崎弥太郎が作った三菱。
ここは戦艦武蔵も製造した現役ドックらしいです。
沖には百万トンの船を建造する三菱ドックもありました。
稲佐山を海上からの眺めますと、江戸時代もきっと来航する船から
当時の人々も同じ様に観ていたのだろうと思うだけで
涙腺が緩んでしまいます。
海上から見た小菅修船場跡は薩摩の英雄小松帯刀が関しています。
海上からの大浦天主堂方面にあるグラバー邸の佇まいに感動です。
いよいよ中の島(棄霊島でも出てきます)の隣に端島
通称「戦艦島」が長崎港から19km沖合現れました。
暫く口をポカーンと開けたままその姿に引き込まれてゆきます。
船が接岸できる場所は1か所のみで、波の程度により上陸出来ない場合も
しばしば有るそうですがこの日は幸にも上陸可能でした。
その桟橋は簡素で高所がとても苦手な私は怖かったですが、
上陸の欲が勝ち何とか足を進められました。
(私の足が海上の桟橋にこんな感じです)
それはさて置き軍艦島上陸は圧倒されました。
手前の大正に建てられた日本初の鉄筋コンクリート住宅。
その隣には昭和に建てられた鉄筋コンクリート住宅が寄り添うに並んでいました。
レンガ作りは総合事業所でその中には共同浴場があり炭坑に従事する人で
いつもお湯が真っ黒だったとか。今ではその面影もなく壊れています。
戦艦島では実際にここで暮らしていた方がボランティアガイドさんとして
当時の話をされますので目の前の光景とリンクして心が揺さぶられました。
私が小学生の頃までこの島で多くの人々が暮らし賑やかな日常がありました。
つい先日の様な気もしますが、無人になった軍艦島は
その対比に多くの事を語り掛けているようです。実際に島の土を踏みしめ
世界文化遺産「軍艦島」に上陸体験出来たことは一生の思い出です。
帰りの船上から軍艦島を振り返りますと
太平洋戦争時代にアメリカが日本の艦船と間違え魚雷を撃った逸話も
軍艦島を目の前にすると妙に納得ます!
さて帰港した長崎港ではベーロン大会の準備や
夜に行われる長崎花火大会の準備で賑わっていました。